
黄帝内径の54番目は針解篇(しんかい)。
黄帝⇒願わくば九針の解、虚実の道を聞かん。
虚実に対する治療法について述べています。
虚に対しては補法、実に対しては写法。
これが治療法の原則です。
※難しいよね・・・・きっと、補法という考え方と、写法という考えたがあるのです。
図にすると・・・・こんな感じです。
その補写について教えてくれている。
岐伯先生曰く。
「虚を刺すときはこれを実とするとは、針下、熱するなり、気実すればすなわち熱するなり。」
虚に対しては補います。
補うと針を施(ほどこ)した場所が熱を持ってくる。
これは気が集まってくるからです。
具体的には押手にその熱を感じます。
◆満(まん)してこれをもらすとは、針下、寒するなり。気虚すればすなわち寒すなり。
実している場所、すなわち気が集まりすぎている場所に針をして、その気をもらし発散する
と、針を施した場所は冷える。
具体的には、熱をもった局所が冷えるのを押手に感じます。
あるいは手掌(しゅしょう)で触ってもわかる。
◆宛陳(えんちん)するは即ちこれを除くとは、悪血を出すなり。
久しくうっ滞した血液は、糸ミミズのようになって現れる。
これに刺針すると赤黒い血が出る。
足にあるそのような細絡から血を出すと、足が冷えなくなる。
あるいは各種の痛みが絡なることがある。
このように血を出すこと、つまり写血や刺絡と、一般に言われる写法と同じように思われる。
しかし、それらは明らかに違うらしい。
◆邪盛んなれば則(すなわち)これを虚すとは、針を出して按ずることなかれ。
邪によって気が集まりすぎ、つまり実です。
これを虚さしめたるには、針を抜いたあと、針孔を按圧してはいけない。
後揉法を施さないのです。
※揉法とは、もむ方法
◆しずかにして疾(はや)きときは則(すなわち)実するとは、しずかに針を出して疾(はや)くこれを按ず。
※疾:急な病、按:なでる事
◆疾くしてしずかなれば則ち虚すとは、疾く針を出してしずかにこれを按ず。
ゆっくり針を抜いてすぐ針孔を圧する。これは補法です。
はやく針を抜いてゆっくり按圧する。これは写法です。
○実と虚を言うは、寒温気の多少なり。
○実を刺すはすべからくそれ虚すべし、とは、針を留めて陰気隆に至らば、すなわち針を去るなり。
○虚を刺すはすべからくそれ実すべしとは、陽気隆に至りて針下熱す。すなわち針を去るなり。
※うーーーーん、難しい言葉であるm(_ _!)m 分かりにくいよね~♪
実とは温気(陽気)の多すぎることです。
これを写することは、針を刺して陰気(寒気)が多くなり、局所が寒の状態になればいいのです。
虚とは寒気(陰気)の多過ぎることです。
これを補うとは、針を刺して陽気(熱気)が多くなり、局所が温の状態になればいいのです。
これらの記述から考えて、 補写の法と刺絡(しらく)とは別なものです。
※ということで・・・・専門家でも難しい判断があるらしいと言う事が分かればいいよね(笑)
◆経気すでに至らば、慎み守りて失うことなかれ。
実が寒、虚が温の状態になったら、無理な治療を施して、その状態をくずしてはならないというのです。
◆浅深志しにあるとは、病の内外をしるなり、近遠イツなるがごときとは、深浅その候し。
※候:物事の状態。それを知る手がかり。きざし。と言う意味がある。
病む場所(病位)を知ること。
表裏内外、臓腑経絡とかで病位を示す。
その病位の浅い深いを適確に知らなければならない。
つまり、どの陰気が虚し(または実し)、どの陽気が実(虚)かを知るのです。
その虚実の発している深さまで針を刺入します。
ただし、深く刺入するから写法とはいえない。
浅く刺入するから補法とは言えない。
陰陽の気が至るのを伺う、と言うことについては同じ。
◆深淵に臨(のぞ)むがごときとは、あえてあなどらざるなり。手に虎を握るがごときとは、その壮ならんことを欲するなり。
治療に臨んでは慎重第一とします。治法が決まったら断固として行う。
神衆物(しゆうぶつ)を営することなしとは、志しを静かにして病人を見る。
左右をみることなし。
治療に臨んでは精神を統一します。うろうろしてはなりません。
義ななめに下すことなしとは、端して以って正からんことを欲す。
針を刺す時は、まっすぐに刺す事。
必ず神を正しとするとは、病人の目をみて、その神の制せんと欲す。気をして行く(めぐ)らしやすからしむなり。
刺針に際しては、必ず病人の目を見ること、その精神状態や気の動きを知る為に(笑)