暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わりました。大和朝廷は百済(くだら)から暦を作成するための暦法や天文地理を学ぶために僧を招き、飛鳥時代の推古12年(604)に日本最初の暦が作られたと伝えられています。
暦は朝廷が制定し、大化の改新(645)で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)がその任務にあたっていました。陰陽寮は暦の作成、天文、占いなどをつかさどる役所であり、暦と占いは分かちがたい関係にありました。平安時代からは、暦は賀茂氏が、天文は陰陽師として名高い安倍清明(あべのせいめい 921-1005)を祖先とする安倍氏が専門家として受け継いでいくことになります。
日本書紀 巻19
日本最古の歴史書である「日本書紀」の欽明天皇14年(553)6月の条に、百済から「暦博士」を招き、「暦本」を入手しようとした記事がある。これが、日本の記録の中で最初に現れた暦の記事である。
当時の暦は、「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」または「太陰暦」、「陰暦」と呼ばれる暦でした。
1ヶ月を天体の月(太陰)が満ち欠けする周期に合わせます。天体の月が地球をまわる周期は約29.5日なので、30日と29日の長さの月を作って調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んでいました。一方で、地球が太陽のまわりをまわる周期は約365.25日で、季節はそれによって移り変わります。大小の月の繰り返しでは、しだいに暦と季節が合わなくなってきます。そのため、2~3年に1度は閏月(うるうづき)を設けて13ヶ月ある年を作り、季節と暦を調節しました。大小の月の並び方も毎年替わりました。
暦の制定は、月の配列が変わることのない現在の太陽暦(たいようれき)とは違って非常に重要な意味をもち、朝廷やのちの江戸時代には幕府の監督のもとにありました。
太陰太陽暦は、明治時代に太陽暦に改められるまで続きます。
陰陽寮が定める暦は「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれ、季節や年中行事、また毎日の吉凶などを示すさまざまな言葉が、すべて漢字で記入されていました。これらの記入事項は「暦注(れきちゅう)」と呼ばれています。また、「具注暦」は、「注」が具(つぶさ=詳細)に記入されているのでこの名があります。
「具注暦」は、奈良時代から江戸時代まで使われましたが、特に平安時代の貴族は毎日暦に従って行動し、その余白に自分の日記を記すことが多く、古代から中世にかけての歴史学の重要な史料となっています。
かな文字の普及によって、「具注暦」を簡略化し、かな文字で書いた「仮名暦(かなごよみ)」が登場します。鎌倉時代末期からは手書きでなく印刷された暦も現れ、暦はより広く普及していきます。
江戸時代に入り天文学の知識が高まってくると、暦と日蝕や月蝕などの天の動きが合わないことが問題となり、江戸幕府のもとで暦を改めようとする動きが起こりました。それまでは、平安時代の貞観4年(862)から中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦を作成してきましたが、800年以上もの長い間同じ暦法を使っていたので、実態と合わなくなってきていたのです。
そうして、貞享2年(1685)、渋川春海(しぶかわはるみ 1639~1715)によって初めて日本人による暦法が作られ、暦が改められました。これを「貞享(じょうきょう)の改暦」と言います。江戸時代には、そのあと「宝暦の改暦」(1755)、「寛政の改暦」(1798)そして「天保の改暦」(1844)の全部で4回の改暦が行われました。西洋の天文学を取り入れ、より精密な太陰太陽暦が作成されました。江戸幕府の天文方が暦の計算を行い、賀茂氏の系統を受け継いだ幸徳井(こうとくい)家が暦注を付け加え、各地の出版元から暦が出版されました。
富嶽百景 第3編(葛飾北斎画) 鳥越の不二〔浅草天文台の図〕
北斎の版画「富嶽百景」に収録されている「鳥越の不二(とりごえのふじ)」に描かれた浅草天文台。江戸幕府の天文方(てんもんがた)が天体観測を行った。中央の球は渾天儀(こんてんぎ)という天体運行の観測器械。浅草天文台は、天明2年(1782)、牛込から移転、天保13年(1842)には九段坂上に移った。
はじめ暦は朝廷や貴族のものでしたが、印刷された暦が出版されるようになると、より多くの人が利用するようになりました。農作業や商売にも季節や行事を知るために暦は必要です。とくに太陰太陽暦では、毎年大の月、小の月の並び方が変わるので、代金の取り立てや支払いを月末にする商店にとってはどうしてもかかせないものでした。
そのため、いろいろな暦が工夫され使われることになりました。
■地方暦(ちほうれき)
京都で暦は出版されてきましたが、暦の需要が増すと各地でも暦が出版され始めます。古いものには、鎌倉時代まで遡るといわれる「三島暦」(現在の静岡県三島市で出版)もあります。また、「伊勢暦」(現在の三重県伊勢市で出版)のように伊勢神宮の神官である御師(おし)が全国に配ることにより、広く普及した暦もあります。
文政3年(1820)伊勢暦(表紙)
地方暦の中でも広く普及した伊勢暦。すべて折本だが、大きさ、装丁などに変化が多い。この暦は特製で表紙を金で飾った豪華なもの。
■絵暦(えごよみ)
現代と違い文字が読めない人が多かった時代には、絵だけで作られた暦も登場しました。現在の岩手県で作成された「田山暦」と「盛岡絵暦」があります。
享和2年(1802)田山暦
伊勢暦を参考として山村生活に必要なものを抜き出し、一つ一つ木製の活字を捺して作成してある。最初に犬の絵があり戌年(いぬどし)であることを表わし、主な暦注を絵で示している。現存するものは少ない。
■大小暦(だいしょうれき)
大の月、小の月の並び方を知るために登場した暦です。絵や文章の中に大の月、小の月を折り込み、アイデアやユーモアのセンスを競い、江戸時代に大流行しました。
幕末の「ええじゃないか」の踊りを大小暦に仕立てた河鍋暁斎の作品。男女の別で月の大小を表わしている。
■暦の形いろいろ
よく使う部分を残して簡略化した暦を「略暦」と言います。柱に貼ったり、小さく畳んで持ち歩けるようにしたり、日常的に使われた江戸時代のいろいろな暦が残っています。現在のカレンダーと同じように、商店が宣伝のために年末にお客に配るようになりました。
慶応2年(1866)柱暦
文政3年(1820)懐中暦
明治維新(1868)によって樹立された明治政府は、西洋の制度を導入して近代化を進めました。その中で、暦についても欧米との統一をはかり、明治5年(1872)11月、太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を発表しました。これによって明治6年(1873)から、太陰太陽暦に替わり現在使われている太陽暦が採用されました。
準備期間がほとんどなく、本来ならば明治5年12月3日が新しい暦では明治6年1月1日になってしまったので国内は混乱しましたが、福沢諭吉などの学者は合理的な太陽暦を支持し、普及させるための書物を著しています。
現在私たちが使っているカレンダーは太陽暦によるものですが、その中にも大寒、小寒など古来から太陰太陽暦で使われた季節を現わす言葉(『暦の中のことば』のコーナーを参照)が残っています。毎年毎年新しくなる暦ですが、人間の歴史と文化がその中に刻みこまれていると言えるでしょう。
明治6年(1873)太陽暦
改暦最初の太陽暦。前文に太陽暦の原理と定時法の説明がある。突然の改暦のため、明治5年末までには行きわたらなかった。神武天皇の即位から年を数える皇紀(明治6年は紀元2533年)が入り、上欄には歴代天皇の祭典等が記載されている。
(資料:国立国会図書館)